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東京高等裁判所 昭和28年(う)3805号 判決 1954年12月27日

控訴人 原審検察官

被告人 堀越育造 外三名

検察官 大久保重太郎

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は東京地方検察庁検事正代理検事田中万一名義の、被告人堀越育造外三名に対する、控訴趣意書と題する書面及び被告人市川博吉に対する、控訴趣意書と題する書面に記載されたとおりであり、これに対する答弁は被告人堀越育造の弁護人大高三千助、被告人市川博吉の弁護人渡辺靖一提出の各答弁書に記載されたとおりであるからいずれもここにこれを引用する。

検察官の本件控訴趣意の要旨は、原判決には事実誤認及び法令の解釈適用の誤があるというのである。よつて本件記録を調査し並びに当審における事実の取調の結果を総合考察するに、本件においては未だ被告人等が印紙犯罪処罰法第二条所定の交付行為の実行に着手したものとは認められないので、原審の事実の認定並びに法令の適用は相当であり論旨はすべて採用するを得ない。(本件被告人等の所為が同条にいわゆる消印を除去した印紙を「交付」しようとしたものであるか又はこれを「使用」しようとしたものであるかの点は問題の余地があるが、本件の結論には影響を及ぼさないものと認めるので、この点に対する判断はこれを省略し、以下本件訴因に即し「交付」しようとした場合にあたるものとして論議を進めることとする。)

先ず印紙犯罪処罰法第二条にいわゆる交付行為の実行の着手の観念について考察すると、一般に実行の着手とは犯罪構成要件を実現する意思を以て、その実行即ち犯罪構成要件に該当する行為を開始することを指称するものと解すべく、即ち犯罪行為の実行の着手があつたかどうかは主観的には犯罪構成要件を実現する意思乃至は認識を以てその行為をしたかどうか、客観的には、一般的に犯罪構成事実を実現する抽象的危険ある行為がなされたかどうかを探究して個々の場合につき具体的に認定さるべき事実問題であるということができる。犯罪構成事実に属する行為及びこれに直接密接する行為がなされたときに犯罪実行の着手があるとするのも、実行の着手の客観的方面に即してこれを定義したものに外ならない。而して印紙犯罪処罰法第二条にいわゆる「交付」とは同条所定の印紙をその情を知りながら行使の目的で自己以外のものにその占有を移転する行為と解せられるのであるから(情を知らない第三者に右印紙が正当なものとして占有を移転する場合は「交付」ではなく「使用」にあたると云う問題は本件においては一応論外とする。)同条にいわゆる交付行為の実行の着手があるとするには、右印紙の占有を移転する意思乃至は認識を以て、現実にその占有を移転する行為の一部又はこれに直接密接な行為を開始したものと認められる場合でなければならない。

今本件事案について考察すると、検察官論旨第一点引用の各証拠並びに当審における証人金井精一及び楠井昇の各供述を総合するときは被告人等は高橋慶治郎及び市川規孝等と共謀の上、本件消印除去印紙をいずれもその情を知りながら他に売却しようとしたものであるが、そのうち高橋において楠井昇にこれを売り込もうとしてその交渉に当り、市川規孝より堀越、額川、高橋に順次手交された右消印除去印紙の見本を同人に示した上交渉の結果、楠井より、右印紙が確実なものであれば買うと云う話があり、取引は一月二十一日東京都中野区本町通河原井惣三郎方で行うと云う話合になり、当日市川(博吉)は本件消印除去印紙を携えて堀越、渡部、額川、高橋と共に、中野区鍋屋横丁附近の飲食店で楠井と会つたが、その時は本件印紙の取引価格について協議がまとまらず、又楠井が取引に必要な額の現金の準備がなかつた等のため、市川が持参した印紙をその場に出すこともしないで取引はその翌日これを行うこととして別れたのであるが、翌二十二日堀越、渡部、額川は高橋からの伝言により正午過頃前示河原井方に赴き、その附近で待つていたところ楠井と高橋が出て来て取引をするから市川を呼んでくれと云つたので、渡部が市川に印紙を持つて来るよう電話を掛け、市川は当日は愈愈現実に取引をするつもりで本件印紙を携えて河原井方に向け自宅を出立したが、その間において一方楠井は現品を取引するについては郵便局において右印紙の鑑定をしてもらうことを条件として持ち出した為、被告人堀越、額川、渡部等は楠井が今に至つてそのようなことを云い出しては本件取引は成立の見込がないと考え、市川が本件印紙を携えて右河原井方附近に到着したとき同人にその事情を告げ高橋、渡部、額川等は間もなく現場を立ち去つたのであるが、堀越及び市川は何とか取引を成立させようとして、堀越から本件印紙は消印を除去した印紙であるが司法書士にいくらか金を使えば登記所等では使えるものである等と説明して買受方を求めたが楠井の応ずるところとならず本件取引は不成立となり、被告人堀越及び市川は楠井が警察署に通報した為現場附近で逮捕されるに至つたことが認められるのである。即ち右一月二十二日午後被告人市川が本件印紙を携えて自宅を出立した時においては同人は本件売買契約が成立し本件印紙を引き渡すつもりでその準備をととのえて同人方を出たものではあるが、同人が前示河原井方附近に至るまでに事情は全く一変し本件取引は殆んど成立の見込がなくなり、同人が現場に到着した頃は額川、渡部、高橋等は本件印紙の売買が成立しその引渡をすることは見込がないと考えており、また被告人堀越及び市川はなおも楠井に本件印紙が消印を除去したものである事情を打ち明けて買受け方を求めたものの、同人等としてもその取引が成立するかどうかは全く不明であり、従つていわゆる現実売買を常とする被告人等としては当時の状況の下において本件印紙を相手方に引き渡す意思もなく、又現実にこれを引き渡す行為或はこれに直接密接な行為例えば右印紙を相手方の前に提出展示し、又は印紙を持参したから直ちに引き渡しうる旨を告げて口頭により提供する等の行為も何等なされなかつたことが認められるのである。

敍上認定の経緯に徴するときは本件において被告人等は共謀の上本件消印除去印紙を売却しようとして楠井と交渉を行い上記のように一月二十二日現実に取引をするという段階にまで到達したが、愈々取引をすると云う直前において楠井から前示のように印紙の鑑定などという条件を持ち出された為右取引現場においては右取引を成立させて印紙を引き渡すと云う意思はなくなつたと共に、現実に右印紙の占有を移転する行為又はこれと密接な行為をするに至らなかつたものと認めるの外はないのである。

検察官は市川が自宅を出たときに本件交付罪の着手があつたものと主張するが、右行為は一般的に観察して未だ「交付」に直接密接な行為とは認め難く、いわゆる予備の段階たるに止まるものと認めるのが相当である。又検察官は印紙犯罪処罰法が交付の未遂罪を処罰すべきものとしている法意に照らし本件のような段階の行為をも未遂として処罰すべきであると主張するけれども右のように解するときは実行の着手と予備との段階を不明確にする結果となり、印紙犯罪処罰法が偽造変造又は消印除去印紙等につき不法所持を罰する旨の規定を設けていない以上、本件のような行為は未だ犯罪を構成するに至らないものと做す外はなく、本件事案を未遂を以て処罰することは不当に構成要件の解釈を緩くするものであるとの非難を免れない。

原判決がその理由中に説示するところは敍上の説示といささか趣を異にするところはあるが、本件事案について交付罪の実行の着手があつたものと認めず無罪を言い渡した点において正鵠を失わないものであり、所論のように事実の認定、法令の解釈適用を誤つたと云う違法はないから、検察官の各控訴は理由がないものとしてこれを棄却すべきものと認める。よつて刑事訴訟法第三百九十六条に従い主文のとおり判決する。

(裁判長判事 谷中董 判事 坂間孝司 判事 荒川省三)

検察官の控訴趣意

原判決は、「被告人等四名は市川博吉と共謀の上昭和二十七年一月二十二日頃行使の目的を以て東京都中野区本町通り六丁目二十七番地河原井惣三郎方附近において楠井昇に対し何れも消印を除去した日本政府発行の収入印紙千円券三百六十八枚及び五百円券三十九枚を売却の為交付しようとしたが、市川博吉及び被告人堀越が警察吏員に逮捕された為その目的を遂げなかつたものである。」との本件公訴事実に対し、「本件に顕れた証拠を綜合すれば被告人等は消印を除去した日本政府発行の収入印紙千円券三百六十八枚及び五百円券三十九枚をその情を了知し乍ら、これを売却又は担保に差入れて不正の利得を得ようと順次意思を通じ被告人高橋が楠井昇に接衝し内一枚を同人に見本として手交した後市川博吉が右印紙を持参し売買契約が成立してから代金と引換えに引渡すべく昭和二十七年一月二十二日頃(判決理由記載の一月二十一日頃は誤記と思われる)前記河原井方(判決理由記載の河井方は誤記と思われる)附近で楠井と交渉中楠井は右収入印紙は或いは不正なものではないかとの不審をいだき同所附近の郵便局へ行き鑑定して貰つたうえ公正なものであれば買受けると申出たので右被告人等は郵便局へ行つて鑑定すればその不正なものであることが発覚する為やむなく楠井に対する右収入印紙の売買をとりやめ即ちまだ売渡数量、金額その他の条件の同意が出来ず売買契約の成立に先立つて楠井と別れ夫々同所附近を離れたところ楠井の通報によつてかけつけた警察吏員にまだ同所にいた市川博吉及び被告人堀越が逮捕されたという事実が認められる。」との事実を認定し、被告人等の右所為は「犯罪の実行の着手があつたものとは認めることができないから結局本件公訴事実は犯罪の証明不充分か、罪とならないことに帰着する」と判示して被告人等に対し無罪の言渡をした。しかしながら、右判決は、本件原審に顕れた各証拠によつて認め得る事実を誤つて認定し、且つ、法令の解釈適用を誤つた結果、本件は犯罪の証明不十分か、罪とならないと判断して無罪の言渡をしたものであり、右事実の誤認及び法令の解釈適用の誤は、判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、到底破棄を免れないものと思料する。

以下順次その理由を開陳する。

第一、原判決には、本件に顕れた証拠によつて認め得る事実の一部を看過し、その結果明白な事実の誤認をなした違法がある。原判決は前記の如く、被告人等四名と市川博吉との間に消印を除去した本件収入印紙を売却することについての謀議が成立した事実、被告人等が本件印紙が消印を除去したものであることの情を了知していた事実並びに被告人等が楠井昇に該印紙を売渡すため同人と接衝した事実を認めたうえ、「売渡数量、金額その他の条件の同意が出来ず売買契約の成立に先立つて」本件の取引をとりやめた、旨事実を認定しているが原判決の該事実認定には、次のような誤がある。

原審において取調がなされた主な証拠、即ち原審証人楠井昇の証言(記録第一〇七丁乃至第一二六丁)、市川博吉の司法警察員に対する第一回及び第二回供述調書(記録第一八四丁乃至第一九九丁)、同人の検察官に対する第一回及び第二回供述調書(記録第二〇〇丁乃至第二〇九丁)、被告人堀越の司法警察員に対する第一回供述調書(記録第二一一丁乃至二一一八丁)、同人の検察官に対する第一回及び第二回供述調書(記録第二一九丁乃至第二六二丁)、被告人渡部の司法警察員に対する第一回供述調書(記録第三二五丁乃至第三三三丁)、同人の検察官に対する供述調書(記録第三三四丁乃至第三三五丁)、被告人額川の司法警察員に対する第一回及び第二回供述調書(記録第二六四丁乃至第二七〇丁、第二七三丁乃至第二七五丁)、同人の検察官に対する第一回供述調書(記録第二七一丁乃至第二七二丁)、被告人高橋慶次郎の司法警察員に対する第一回乃至第三回供述調書(記録第二八〇丁乃至第二八五丁、第二八八丁乃至第二九一丁)、同人の検察官に対する供述調書(記録第二八六丁、第二八七丁)の各供述記載並びに司法警察員宮田東洋二外一名作成の被告人堀越及び市川博吉の各現行犯人逮捕手続書の各記載(記録第八六丁乃至第八九丁)等を綜合すると、大要次の事実を認め得る。即ち、これらの証拠によれば、

(1)  原審分離前の相被告人市川博吉は、同人の父市川規孝と共に、かねて原審相被告人前川伊一郎及び石坂正慶から交付を受けて所持していた消印を除去した本件収入印紙の転売を企図し、昭和二十七年一月十八日頃、東京都台東区上車坂三十四番地市川規孝方において、被告人堀越、同渡部の両名に対し、消印を除去した額面千円の収入印紙一枚を見本として交付してその売却方を依頼し、該依頼に基き、被告人渡部は直ちに同日頃、同都渋谷区金王町七番地の被告人額川方に赴き、同所において、同人に対し、右印紙一枚を見本として交付し、その売却斡旋方を依頼し、更に被告人額川は、右依頼に基き、同月十九日頃、同都世田谷区大原町千三百一番地の被告人高橋方に赴き、同人に対し、該印紙一枚を見本として交付してその売却斡旋方を依頼したところ、被告人高橋がこれを承諾し、茲に前記市川規孝及び被告人四名の間に、消印除去印紙売却についての謀議が成立した。

(2)  右謀議に基き、(イ) 被告人高橋は、同月十九日頃、同都世田谷区下谷田百五十一番地の楠井昇方に赴き同人に対し前記の印紙一枚を見本として交付し、「このような印紙が百万円分位あるが額面の八割で売るから買わないか」と売渡の申込をなしたところ、楠井は、被告人高橋に対し、「確実の品であれば六割でならば買う」との趣旨の返事をした。(ロ) 被告人高橋は、更に、翌一月二十日頃再び前記楠井を訪ね、同人の印紙買受についての意向を確かめたところ、同人は、被告人高橋に対し、はつきり買受の意思表示をなし、両者の間に取引日時は翌一月二十一日午後、取引場所は中野区本町通り六丁目二十七番地の河原井惣三郎方、取引は現物と引換の即金取引とする旨の合意が成立した。(ハ) そこで、被告人高橋は右の件を順次他の被告人等に連絡し、翌一月二十一日午前中、前記被告人額川方に被告人四名及び前記市川規孝が相会し、同人が持参した消印除去印紙約四、五十万円分を、被告人高橋において、消印除去の仕上り具合によつて上・中・下の三通りに選別し、上・中級の印紙を楠井に売込むことにきめ、売却のための準備をした。(ニ) 同日午後六時頃、前記(ロ)の約旨に基き、被告人四名及び前記市川博吉、市川規孝の六名が消印を除去した印紙約二十一万円分を持参して前記河原井方附近に到り、該印紙の取引を実行しようとしたが、買受人である楠井に代金の準備がなかつたので取引は実行の運びに至らず、翌一月二十二日正午頃前記河原井方において取引をなすことを約して別れた。(ホ) 右(ニ)の約束に基き、(a) 翌一月二十二日正午頃、被告人四名が前記河原井方前に参集し、被告人高橋が河原井方において、買受人楠井と最終的に交渉し、直ちに取引をなすことが決つた。(b) そこで、被告人渡部が、前記台東区上車坂三十四番地なる市川規孝方において待機中の市川博吉に対し電話にて、「今日は間違いなく取引が出来るから印紙の現物を直ぐにもつてこい」と連絡し、市川博吉は右連絡により、直ちに既に用意しておいた本件印紙千円券三百六十八枚及び五百円券三十九枚を携えて前記市川規孝方を出発し、途中国電を利用し、同日午後二時前後頃、被告人四名及び前記楠井が待つている前記河原井方附近に到着した。(c) 然るに、市川博吉が取引現場に到着する直前、楠井が本件印紙が真正なものであるかどうかについて疑を抱きはじめ、被告人等に対し、近所の郵便局で鑑定したうえ買受ける旨の意思表示をなした。(d) そこで、被告人等は鑑定の必要がないことを説き、楠井を納得させようとしたが、同人が承知しなかつたので、市川博吉が前記の如く本件印紙を持参して現場に到着した後、被告人四名の中被告人堀越を除くその余の三名は、発見を惧れて現場を立去つた。(e) 被告人堀越及び市川博吉の両名は、なおも楠井に対する売込を断念せず、市川博吉が傍で待つている間、被告人堀越が楠井に対し交渉を続行し、郵便局で鑑定することを思い止まらしめるべく同人に本件印紙が消印除去印紙たることの情を打明けたうえ買受を懇請したが、同人がこれを肯ぜず、結局本件取引は不成立に終つた。(f) その直前同日午後二時四十五分頃、楠井が警察に電話で通報したので、取引が不成立に終つた直後同日午後三時頃、中野区本町通り四丁目三十八番地先道路上において、被告人堀越及び本件不正印紙を所持せる市川博吉の両名が前記司法警察職員の手によつて印紙犯罪処罰法違反罪の現行犯人として逮捕された。との各事実を認めるに十分である。

かくの如く、原審において取調がなされた証拠によれば、被告人堀越及び市川博吉が司法警察職員に逮捕される直前に取引が不成立に終つた状況にあるのでこの点に関する限り、原判決の前述の事実認定は正当であるとしなければならない。しかしながら、右のような事情で取引をとりやめた際における取引についての当事者間の話合の程度については、原判決が前述の如く、「………売買契約が成立してから代金と引換えに引渡すべく……楠井と交渉中………まだ売渡数量、金額その他の条件の同意が出来ず売買契約の成立に先立つて楠井と別れ………」と判示したことは、事実の認定を誤つたもので、このことは、前記摘示の各事実に照らせば明らかであるが、更に、この点に関する各証拠を仔細に検討するに、本件印紙の買受人である楠井昇は原審第七回公判廷において、「昭和二十七年一月十九日頃、高橋が来て収入印紙が百万円分位あるが八掛で買わないか、と申込んで来たので確実なものであれば六掛でなら買うと返事したところ、高橋は一旦帰つたが、同日頃再びやつて来て千円収入印紙の見本一枚をくれ種類は千円の外に二、三種類あり六掛で出ると言つた。その翌日一月二十日頃再び高橋が来たので同人に買う、と返事し、取引の場所は河原井方、取引の日時は明日(一月二十一日)の午後、取引方法は即金取引にすると約束した」との趣旨の証言をしており(記録第一〇八丁表乃至第一一二丁表)、楠井と直接取引の衝に当つた被告人高橋の検察官に対する供述もほぼこれに符合している(記録第二九四丁表乃至第二九五丁表)。かくの如く、被告人等の本件犯行の前々日である一月二十日頃、既に売主の一人である被告人高橋と買主である楠井との間に、売渡しの印紙の数量は約百万円分、印紙の種類は額面千円のもの外二、三種類、支払代金額は額面価格の六割、代金支払は即金取引と売買契約の成立について通常必要とされる諸条件について合意が成立したのである。而して、被告人高橋と楠井との間の右の合意に基いて、一月二十一日頃の夕刻被告人四名及び市川父子が前記河原井方附近に赴き楠井と合つたがその日は取引実行の運びに至らず、翌一月二十二日正午頃取引を実行することを契して別れ、該約束に基き翌一月二十二日被告人四名が先ず河原井方附近に参集し、被告人高橋が楠井と交渉し取引を実行することに話合が決つたので、被告人渡部が市川博吉に電話で連絡し、該連絡に基いて市川博吉が本件印紙を持参して楠井の待つている取引現場に到つたことは、前述の通りである。なお、被告人高橋と楠井との間に成立した合意によれば取引数量は約百万円分であるのに対して、本件取引当日市川博吉が現場に持参した印紙の数量は額面総額三十八万七千五百円分に過ぎなかつたのであるが本件被告人等のようなブローカー間のこの種の不正な品の取引にあつては、本件取引のように取敢えず手許に集つたものを取引相手方に売込み、引続きその余の分を調達して売渡すという事例は決して少くないのであつて、このことを以て取引数量について合意が成立しなかつた、とみることは寧ろ常識に反するものと謂わなければならない。

前述の合意を以て、売買契約が成立したものとすべきか、将又売買の予約の程度というべきかは、一面法律判断の問題ではあるが、法律判断を下す前提事実として被告人等と楠井との間に前記の如き合意が成立した事実はこれを認むべき証拠が十分あるのに拘らず、これを看過して、前述の如く「まだ売渡数量、金額その他の条件の合意が出来ず」と判示した原判決の事実認定には重大な事実の誤認をなした違法があるものといわざるを得ない。而して、該事実の誤認は、後述の被告人等が本件犯行について実行の著手があつたと判断すべきかどうかという法律判断の問題に直接関連するものであるから、後者についての原判決の法律の解釈を誤りその結果適用すべき法律を適用しなかつた誤と相俟つて原判決に影響を及ぼすことが明らかである。

第二、原判決には、印紙犯罪処罰法第二条及び刑法第四十三条の解釈適用を誤つた違法がある。前述の如く、本件にあつては、印紙犯罪処罰法第二条にいわゆる「消印ヲ除去シタル印紙ヲ………行使ノ目的ヲ以テ他人ニ交付」なる構成要件に関して、実行の著手があると判断すべきかどうかが論点であるので、この点について審究する。

原判決は先ず「印紙犯罪処罰法第二条にいわゆる交付なる行為が同条所定の印紙をその情を知つて行使の目的で自己以外の者に手交する所持移転の行為を意味することは素より明らかであるからこれが著手ありとなすにはそれ等行為の一部が行われるかこれに密接な程度の行為が実現されなければならない」と説示し、次いで「本件において被告人等はまだ楠井昇に手交するに到らなかつたことは右認定の通りで」あり、「被告人等は楠井に売却しようとしたのであるが不正印紙の売買という特殊事情もあつて売買契約が成立したのち代金と引換えでなければ楠井に引渡さない意図であつたのであるから少くとも売買契約が成立するに非されば手交につき密接な程度に達したものとは考えられない」から、本件については「犯罪の実行の着手があつたものとは認めることができない」と断定している。

「犯罪の実行の着手」なる概念をいかに定めるかについては、学説上争の存するところであるが、個々の具体的事案についてこれを判断するに当つては、証拠によつて認め得る客観的事実に顕れた行為の客観的危険性と行為者の犯意に認められる主観的危険性の両面からこれを綜合的に判断しなければならないものと思料する。そこで、以下先ず本件の客観的な事実を中心にして、原判決の前述の法律判断を検討し、次で被告人等の犯意の面からこれを考察することとする。

先ず、原判決の前述の事実認定及びこれに対する法律判断についての判決理由の基礎となつている考え方は、取引の端緒から「交付」に至る過程を観念的に「<1>予備的折衝 <2>売買契約成立 <3>契約の履行即交付」なる三段階に分けているものと解される。しかしながら、前述事実認定の項において指摘した本件取引における売主である被告人等と買主である楠井昇との間の合意の成立を以て売買契約の成立と判断しない限り、本件取引の如く、目的物とその代金とをいきなり交換し合う所謂「現実売買」にあつては、「交付」に至る過程は、「<1>予備的折衝 <2>売買契約成立即契約の履行即交付」なる二段階しかないのであるから、予備的折衝の段階が前述第一(2) (ホ)の程度に達しても、尚且つ「交付」に密接な程度に達したものといい得ない、となすならば、本件の如き現実売買の形式による取引にあつては「交付 未遂」なる概念は、事実上存在する余地がないことになる。而してこの種不正印紙の取引にあつては、通常の公正な取引におけるが如く明確な売買契約が成立した後該契約が履行されるという取引形態をとることは寧ろ稀有のことに属し、一般には本件の如き態様にて取引がなされるのが通例であることは、日常の経験則上明らかであるから、原判決の如き考え方で前述の法条を解釈するならば、同法条が「交付」について未遂罪を設けた趣旨は殆んど没却されるものというほかない。したがつて原判決が前述の如く「少くとも売買契約が成立するに非ざれば手交につき密接な程度に達したものとは考えられない」と説いたことは、明らかに事実に即しない失当のものである。

次に、前述の「交付」なる概念は、自己以外の者に手交、郵送する等「所持移転の行為」を意味するに止まることは原判決説示の通りで所有権その他の権利の移転を必要とするものではなく、一方「交付」なる構成要件は、その内容に時間的継続の要素を含まず、且つ行為が単一であつて、構成要件の実現と同時に犯罪の既遂となるものであるから、郵送或は使者によつて交付する場合は格別、取引の当事者同志が直接同一場所に相会して取引をなす本件の如き場合にあつては、「交付」なる構成要件が行われて尚且つ未遂の段階に止まる、ということは実際上殆んど考えられないところである。これを本件の場合についてみるに、被告人等が楠井昇に本件印紙を交付したが、楠井が該印紙をみて始めてそれが消印を除去したものであることに気付き直ちにその場で被告人等に返品したものと仮定しても、形式的には一旦手交行為があつたのであるから、かかる場合は、「交付」なる構成要件に該当する行為の一部が行われたものと解することが出来る。原判決の如く解するならば、本件の如き取引形態をとる場合、印紙犯罪処罰法第二条の「交付」の未遂罪はかかる場合にのみ成立し得ることになるが、爾く狭く解釈すべきものとは考えられないのである。刑罰法規は、これを不当に拡張して解釈してはならないことはいう迄もないが、前述の設例と本件の場合とは、行為者の行為に顕現された客観的危険性の程度において、果して実質的にみてどれ程の差異があるであろうか。「交付」なる構成要件について「実行の著手」ありと判断するについて、「交付」なる構成要件に該当する行為に「密接な程度の行為」の範囲をいかに定めるかは、極めて困難な問題ではあるが、一般的な抽象論としては、経験則上社会的事実として密接であるかどうかを判断するに止まらず、更に未遂罪を処罰する旨規定している各刑罰法規の法意に照らし、該刑罰法規が、その発生を未然に防遏せんとしている法益侵害の危険性が具体的に発生したかどうか、ということを判断の基準にすべきものである。これを本件の場合についてみるに、印紙犯罪処罰法第二条において、偽造、変造の印紙、印紙金額を表彰すべき印章、消印を除去した印紙の使用並びに行使の目的を以てするこの種不正印紙の交付、輸入、移入等の行為を処罰し、且つこれについて未遂罪の規定を設けた所以は、国家の発行する印紙の真正に対する公共の信用を維持し、且つ此種不正印紙の流通使用を防止して国家の歳入の一部である印紙による税収入を確保する、ことにあるものと解すべきであるから、「交付」なる構成要件に該当する行為に密接な程度の行為があつたかどうかの点についても、この法益侵害の危険性が具体的に発生したかどうかを基準にして決定しなければならないものと考えられた。右の点からみれば、本件の如く被告人等が本件不正印紙を楠井に交付せんとする直前、楠井がそれが不正なものではないかとの疑をもつたため取引が不成立に終つた場合も、前述設例の如く、楠井が一旦交付を受けたがそれが不正印紙であることに気付いて直ちに被告人等に返品した場合も、客観的な法益侵害の危険性の程度においては、両者殆んど差異がないと考えるべきである。

然らば、前述の本件の取引の過程にあつては、いつその客観的な危険性が具体的に発生したかという点については、それは前述第一(2) (ホ)(d)記載の如く、被告人渡部の取引現場からの電話連絡により市川博吉が本件消印除去印紙千円券三百六十八枚及び五百円券三十九枚を携えて前述市川規孝方を出発したとき、と解すべきである。即ち、この時に該不正印紙が被告人等と楠井との間の取引に供される客体として特定され、若し楠井において、鑑定して貰つたうえ買受ける旨申出る、という特殊の事情が発生しなければ、そのまま楠井に交付されて転輾流通し、結局それが真正な印紙として再使用さるべき客観的な事態が発生しているからである。また、前述の如く本件取引が不成立に終る直前の状況は、市川博吉が楠井に売渡すべき印紙を所持して、約束の取引場所附近において、楠井と相会しており、直ちに該印紙を楠井に手交し得る状態にあつたのであるから、それが社会的事実として手交に密接な程度に達していることは経験則上明らかなところである。

飜つて、本件被告人等の犯意に顕れた主観的危険性の程度について考察することとする。本件被告人等が特定の楠井昇なる者に消印除去印紙を売込むという犯意は、被告人高橋と楠井との間に前述の合意が成立し、被告人高橋がこれを他の五名の共犯に順次連絡し他の共犯がこれを了知したときに、共犯のすべてに発生したのであるが、楠井に対して特定の印紙、即ち本件消印を除去した印紙千円券三百六十八枚及び五百円券三十九枚を売渡す、という犯意は、前述の如く、被告人渡部が市川博吉に間違いなく取引が出来るから印紙をもつて来い、と電話にて要請し市川がこれを承諾したときに、確立されたのである。即ちこのときに被告人等の犯罪的意思が外部的行為によつて識別せられ得る状態に達したのであり、いわゆる犯意の徴表があつたのである。

かくの如く、客観的事実から判断しても、又被告人等の犯意の点からみても、被告人等が特定の不正印紙を楠井に売渡すべきことを認識し、且つそれが特定されるに至つたところの市川博吉の市川規孝方出発のときを以て「交付」に密接な程度の行為に達し、且つ被告人等の犯意が確定的に顕現されたものと認めるのを相当とするから、このときを以て本件犯罪の実行の著手があつたものと判断すべきである。しかるに、原判決は、右の事実を以てしては未だ手交につき密接な程度に達したものとは考えられない、と判断しているが、該法律判断は、印紙犯罪処罰法第二条及び刑法第四三条の解釈を誤り、右法条に規定する未遂罪成立の範囲を不当に狭く解して前述の各証拠によつて認め得る被告人等の本件所為について誤つた法律判断を加えたものといわざるを得ない。

なお、消印除去印紙を情を告げずに情を知らない者に引渡す所為が、印紙犯罪処罰法第二条所定の交付罪に該当するものか、或は同条の使用罪を以つて論ずべきものであるかについては、刑法第一五二条、同法第一六三条の場合と同様、議論の存するところであろうが、印紙犯罪処罰法第二条においては、消印除去印紙等の使用罪についても、その未遂を処罰する旨規定されているから、仮に、情を知らない者に情を告げずに消印除去印紙を手交する行為が使用罪に問擬さるべきものとしても、前述の論旨をそのまま援用し得るものと考える。

畢竟、原判決には、法令の解釈適用を誤つた結果、罪となるべき事実を罪とならないと判断したか、或は犯罪の証明が不十分である旨判断した違法あるに帰する。

以上述べたように、原判決には重大な事実の誤認並びに法令の解釈適用の誤があつて、それはいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は到底破棄を免れないものと信ずる。

(市川被告人に対する分は省略する。)

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